当 店 の 歴 史

古本業の始まり−東京・球陽書房とのご縁

 当店の前身は1981年2月創業のロマン書房です。最初は浦添市西原の県道沿い
にオープンした小さな新刊書店でしたが、その年の夏、宜野湾市真栄原の現在の店
舗が空きになっていたのを機に移転をしました。、店舗面積が一挙に3倍ほどに拡大
したのはいいのですが、手持ちの新本だけではスペースを持て余しぎみだったことも
あり、その解決策として古本業務への参入を決意したのです。

 まず手始めに古本の本場である東京との流通ルートを確立するために、当時の店
主・照屋全芳が上京。あてにしていたのは沖縄関係書を専門に扱っていることで知ら
れていた杉並区高円寺の球陽書房さん。そこの店主・西平守良さんは沖縄出身で、
東京で終戦直後の昭和20年12月からこの仕事を始めていた大ベテランです(残念
なことに西平さんは今年【2001年】病気のためお亡くなりになりました。ご冥福をお祈
りいたします。合掌)。

 自分の郷里から、今後の協力を請うてわざわざ訪ねて来てくれたた若者が、たまた
ま同じ今帰仁村天底(なきじんそん・あめそこ)の出身であることや、西平さんの息子
さんで当時すでに二代目として球陽書房を切り盛りしていた守次さんが、当店の店主
と同年同月の生まれであるという酒の肴になるような偶然も味方して、交渉はトントン
拍子にうまく運び、以後西平さん親子の絶大なるご尽力のおかげで、東京の古書市場
から沖縄の宜野湾市に向けて、コンテナに満載された古本が毎月定期的に海を渡っ
て運ばれることになります。うちだけではなく、その頃の沖縄の業者で東京からの仕入
れを考えた者は、まず全員何らかの形で西平さん親子にお世話になっているはずです。
いわば沖縄古書業界の大恩人なのでした。

古本文化後進地域・沖縄における初期の販売戦略−「半額」の神通力

 ところで、当時の沖縄では古本屋という仕事はまだ社会的に認知度が低く、店舗数
も県全体で十数軒程度だったように思います。利用者は本土で古本文化に接した経
験のある大学の先生か、少しでもテキスト代を浮かせたい学生が主体で、彼らにして
もおそらく仲間うちでは少数派の部類に属していたのではないでしょうか。また古本屋
も交通の便が良いとは言えない場所にひっそりと店を出しているのがほとんどで、車
で気軽に乗り付けられるような駐車場を備えた店舗は皆無の時代でした。

 そのような状況において、近隣に地元の大手スーパー、サンエーの真栄原店があり、
比較的交通量も多かった場所に40坪の新店舗を旗揚げした当店は、毎月東京から
コンテナ単位で届く大量の古本を売りさばくために、文芸書や実用書、文庫本等の一
般書については、これをオール半額で販売する方式を採用するようになりました。内
容や出版年や定価に応じて一冊一冊丁寧に価格を決めては、それを鉛筆で裏見返
し部分に記入するといったような、それまでの手法ではまだるっこしいという理由が一
番です。

 本ごとに値段をつける作業がなくなり、レジでは本に表示された定価を2で割って打
ち込むだけで済み、簡略化という点では長足の進歩でした。一見ずぼらなこの商法は、
しかし古本文化後進地域の沖縄においては、当時すごい反響を呼ぶことになります。

 当店を最初に訪れたお客様のなかには、普通の本屋さんができたとしか思ってない
方も多かったようです。なるほど、当初は本棚はもちろんですが、並んでいる本も新刊
書店時に仕入れていたもの、つまり新本もかなりありましたし、加えて店舗自体も大き
く明るくてきれいな物件でしたから、わかるような気はします。

 しかし、実際お客様がそのようなありがたい勘違いをされていることに、売る側の私
たちが気付かされるのはレジを打つときです。「○○円になります」と告げると、「えっ、
なんで安いの?」という声をあげる方が結構いました。多くの消費者が、それまでは本
という商品を定価でしか買ったことがなかったのです。それがディスカウント商品であり、
しかも定価の半額とあればどうでしょう。今と違って、読みたい本を十二分に所蔵して
いる公立の図書館が各地にある時代ではなかったことも、古本屋にとっては好都合で
した。また、東京直輸入の本は古本であることが信じられないほどの美本も多く、いわ
ゆる「新品同様」が定価の半額なのです。スーパーからの買い物帰りに、小説好きの
主婦が文庫本を4冊・5冊とまとめて買っていくような光景が、ひっきりなしに続きました。

 その頃の当店のスタッフは、30歳になったばかりの店主が最年長で、20歳前後の
従業員・アルバイト生が数人と、若さあふれる布陣でした。店主以下最初から古本屋
経営に詳しかった者は一人もおりませんでしたが、「半額」セールで勢いが付きだした
日々の商いが最良の指南役でした。皆開店時刻の朝8時半から閉店時刻の夜11時
までよく働きました。店を開ければ間違いなく売れるのですから、定休日を設けるのは
もったいないと年中無休体制を敷きました(この方針は黄金期を過ぎ衰退期に入って
いる今でも変わりません)。

 また店舗での商売とは別に、各地のスーパーでの古本市や、市町村が主催する夏
祭りのようなイベントへの出店も積極的にこなしました。やはりそこでも「半額」という
謳い文句は相当な
効果があり、人出の多い祭りなどでは一日30万円を売り上げるこ
とも珍しくはありませんでした。


快進撃時代(新聞広告・デパートでの古本市・支店展開)、そしてその摩擦

 新聞広告やチラシ類の配布に力を入れたのもこの頃です。地元新聞の『沖縄タイム
ス』や『琉球新報』の一面三段広告をよくうったものです。那覇市内のデパートの催事
担当者から「うちで古本市をやってもらえないでしょうか」との引き合いもたびたびあり、
三越・山形屋・リウボウ・ダイエーを総なめにしました。通算では何度お世話になったこ
とでしょうか。最盛期には二つのデパートで同時期に古本市を開催する、という離れ業
を披露したこともあります。いわゆるダブルブッキングで、双方の担当者からはいい顔
をされなかったのはもちろんですが、当店単独でこれを請け負ったところに、当時の鼻
息の荒さが偲ばれます。なにしろデパートの催事場を華やかに埋めるだけの、圧倒的
な商品保有量なくては不可能なことなのですから。

 今思えばこの時代のロマン書房は、規模の差はあれど、対社会的なインパクトにお
いて現在の「BOOK OFF」さんに似たような現象を、沖縄という地域限定で巻き起こし
たと言えそうです。古本屋という商売があること、そこは安く本を買えたり、また気軽に
本を売ることもできる店であることなど、この職種の沖縄における社会的認知に間違
いなく一役買ったと思っています。もちろん必ずしもプラスの側面ばかりではありませ
んでしたが。

 ロマン書房の「快進撃」につれて、「古本屋をやってみたい」と希望する人が多くなり、
支店やフランチャイズ的な店補をいくつも作りました。しかしこの方面の業務拡大につ
いては、確固たる方針やノウハウをもちあわせていなかった弱さがたたり、県内各地
で何店舗も作ってはつぶし、作ってはつぶしの繰り返しでした。その過程で少なからず
人間関係を損ねたこともあります。浦添店、小禄店、具志川店、安里店、糸満店、コ
ザ店……数々の懐かしい店名を、どうにか軌道に乗せようとあがいた日々とともに思
い出します。遠くは八重山店(石垣市街に開店)というのもありました。

 若さと勢いに任せた当店の商売のスタイルは、半額セールの安直さへの批判を手
始めに、同業者間でもあちこちで話題のタネとなりました。とりわけ当店単独でのデパ
ート古本市開催には、古書組合全体での統一行動を尊重する立場の先輩業者から
かなり風当たりが強かったものです。いろいろな場面で、「出る杭は打たれ」ました。

 同業者との関係はそのように難しい側面をはらんでおりましたが、他方、店主・照屋
全芳との個人的親交をきっかけに古本屋を始め、その後も堅実に商いにいそしみ、
今や郷土誌専門古書店の主として確固たる知名度をもつ方に、暁書房(那覇市大道)
の中村勇さん、本処あまみ庵(奄美大島名瀬市)の森本眞一郎さんがおります。


ある変わり者の入社

 話は変わり、1982年の夏頃からロマン書房で学生アルバイトとして働き始めたの
が天久斉(あめく・ひとし)という男です。彼はその時琉球大学の国文科4年次(留年し
ていたので実際は5年次)に在学中で、かつ「琉球方言研究クラブ」というサークルに
所属していました。よく古本屋を巡っては、その頃関心があり卒論をこの方面で書くこ
とに決めていた言語学・国語学関係の本を中心に買い漁る男でしたが、目当ての本
が入手できたことで一段落つけてしまう、つまり中身はろくに読みもしない、変な奴で
した(この文章を綴っている私のことです)。

 天久をこの商売に引きずり込んだのは、小学校以来の同級生である長嶺健次(現
在、中山書院を経営)で、彼はその頃、店主・照屋全芳の右腕としてロマン書房の業
務を仕切る立場にある一人でした。古本屋巡りが好きだった天久の性格を見抜いて
いた長嶺は、「一緒に仕事をしよう!」と天久に声を掛けます。買う立場の楽しさは知
っていた天久でしたが、逆に売る立場になることに多少のとまどい・不安を覚えます。
しかし当の長嶺とともに、当時のロマン書房にもう一人いた同級生、松岡泰英(初代
店長。のちの中古レコード部統括責任者)の存在にも安心感を抱き、短期間でもやっ
てみようか、どうせアルバイトなんだから向かないと思えば適当な時期にやめればい
いさ、と決心しました。

 あれから20年ほどの歳月が流れましたが、結局天久はそのまま一度もリタイアす
ることなく、店長という肩書きももらってどっぷり古本屋稼業に浸かったまま、現在に
至っております。そして、この間自らの選択を後悔したことは一度もありません。仕事
上のあらゆるタイミングのみならず、人との出会いにもまた恵まれ、自らの性格・資質
が活かせる仕事だったと、感謝の念でいっぱいです。


商品としての沖縄関係書の位置づけ

 さて、1980年代半ばになるとロマン書房の「快進撃」にも次第に陰りがさし始めま
す。沖縄のあちこちに古本屋ができて、本が安く買える店の存在が珍しくなくなるの
と軌を一にして、「半額」という謳い文句の神通力が失せてきます。安直な商法はマネ
されやすいのでした。

 加えて、「古本買入れ」の宣伝が浸透し地元の客から本を仕入れることができるよう
になった点は、ありがたい反面、状態的にかなり古ぼけた、まさしく「古本」が棚を覆う
ことにもつながり、眼が肥えてきた消費者にとっては、いよいよもって「半額」では触手
が伸びなくなりました。「単行本200円均一」のような、見切り品を安く並べるコーナー
が店内に作られるようになるのは商売上の自然な流れでした。最初はカバーなしに限っ
ていた店頭の「50円均一文庫」のワゴンにも、いつしかカバーがついたものが混ざり
だし、しまいには価格も「3冊100円」に値下げされたのも、同様な変化と言えます。
 
 年月の経過と共に値崩れをおこしてきたそのような一般書に対し、古本屋開業当初
から別枠扱いだったジャンルがありました。沖縄関係書です。

 先ほど触れたように、当店には元々古本屋の経営に詳しい者は一人もおりませんで
したが、客としてあちこちの古本屋や古本市の会場を回った経験を持つものは何人か
いて、それぞれの個人的興味に応じて、定価以上に売値が付いている古本が世に存
在することは知っていました。特に沖縄関係書は人気があるらしく、沖縄の古本屋はど
こでも専用のコーナーを設けていて、そこに並んでいる本は一般書にくらべれば平均
単価がかなり高くなっていることも、知識としては折り込み済みでした。

 なかでも天久は、自身が沖縄の方言関係文献に注意を払っていて、いくつかの本を
古本屋から購入したこともあり、このジャンルは商売としていけるはずだと思っていま
した。「上司」であった長嶺からの許可がおり、沖縄関係書の値段をつける役目をもらっ
た天久は、自らの客としての経験と大学で多少はかじった文献知識をどうにか重ね合
わせながら、本によってはしっかり定価以上の古書価格を付けていきますが、それが
短期間のうちに売れていくことに驚きと喜びを隠せませんでした。

 そういう手応えを感じ始めた時期に、たまたま店主・照屋の知り合いである詩人の
Iさんが、沖縄関係書をまとめて売ってくれるというラッキーな出来事が重なりました。
『比嘉春潮全集』『南島歌謡大成』等の全集・セットものから、喜舎場永じゅんの『八重
山民謡誌』『八重山古謡』等、めぼしいものだけでも数十冊はあったでしょうか。値付
けすら済んではいない状態ながら、とりあえず沖縄関係書大量入荷の宣伝のつもりで
売り場に仮に並べたこの一群れの古書を見て、ある日同業者のT氏が「これ、一括で
うちに譲らない?」と声を掛けてきました。沖縄関係書の相場に最も通じているT氏ほ
どの業者がこう切り出すのですから、やはりかなり良質の買い入れだったことを密か
に確信しました。もちろんその申し出には丁寧にお断りを入れました。

 それらは、1982年11月にデパート沖縄三越で開催された「第2回秋の大古書展」
(沖縄県古書籍事業協同組合主催)に、目録掲載品として出品し、上々の成績をあげ
ました。沖縄関係書はおもしろい、さらに深く追求していきたいと感じ、またできそうな
予感をも抱かせる、記憶に残る出来事となりました。


古書相場の勉強と目録作成への目覚め

 仕事にも慣れ、沖縄関係書の売買にも徐々に自信を持てるようになったとはいえ、
ここでひとつ考えなければいけない問題が出てきました。仕入れた沖縄関係書に値
段を付けて店に出すと、それが稀少本であればあるだけ、棚から姿を消すスピード
があまりにも速いため、次第に天久の中に「本によってはもっと高くしてもいいのか
もしれない。売値の相場を勉強しなければ」との思いが強くなってきたのです。

 相場の勉強に最も役立つのは同業者が作っている古書目録です。どの本にどれ
だけの古書価格がついているのかが一目瞭然で、しかも気になったときにはいつで
も即座にタダで調べられます。同業者の店内でいちいち棚から本を引っぱり出して
売り値を調べることは労力的に大変ですし、第一それを快く許してくれる業者はおり
ません。古本屋の場合、新刊書店と異なり商品売価は一種の企業秘密に属します。
古書目録を作っても同業者には配らない、少なくとも自店の顧客からひととおりの注
文をもらうまでは目録を作ったこと自体も黙っておきたい、という業者心理は、よって
よく理解できるのです。

 天久が沖縄関係書の相場を知りたいと思った段階で、参考になるような目録を作っ
ていたのが、さきほどのT氏でした。当店とほぼ同じ時期に那覇市から宜野湾市内
に店舗を移転したR堂の店主で、すでに東京・神田の市場にも直接出入りしては、沖
縄関係古書の仕入れに精を出していたようで、R堂の目録には、当時の天久が見た
ことも聞いたこともない、よってもちろん一度として扱ったことのない本もたくさん並ん
でいました。

 ただそういった中にも、天久が知っている本や今在庫として持っている本も多少は
見いだせましたから、それをなめるようにチェックしながら、自店の商品の値付けの
参考にしました。同業者が相場調べに使うと知っていれば、さすがにT氏だって目録
を進呈したとは思えません。では、なぜ天久がその目録を持っていたかって? それ
はさきほど少し書きましたが、天久も以前は結構熱心な古本屋の客だったからです。
当然R堂にも足を運んだことがありました。その目録はその時もらったものだったの
です。

 また、1冊1冊の値付けをどうするかという点とともに、もう一つ天久の課題として加
わったのが、うちもちゃんとした古書目録を作らなければ、という点でした。

 古本屋にとって古書目録をつくる利点の最大のものは、それが通信販売用のリス
トとして使えることです。よく「飛び道具」に例えられますが、直接店に立ち寄れない客
にも商品を紹介し、販売できるツールとなるわけです。

 次に重要なのは、作った冊数の分だけ広く多方面に商品情報を提供できることで
す。文字どおり「広告」の一種で、場合によっては同じ本に10人の購入希望者が現
れないとも限りません。その場合店の側もその本を10冊持っているのが理想的です
が、仮に1冊しか在庫がなくても、残りの9人の客から予約をもらったと思えばよいの
です(もちろん、あとは再入手に対する努力が問われますが)。店の棚に本を並べる
だけの方法では、その本が売れて棚から姿を消した時点で、客に対する商品情報も
途絶えることになりますから、その違いたるや大きなものがあります。

 古書目録作成の効用には、ほかにも商品情報の「保存」をあげることができると思
います。たとえば、目録をつくって2、3年後に、掲載品に対する注文や問い合わせを
受けることがままあります。これほど時間が経過していながら、「あの店はあの本を
あの値段で売っている」ことに客の側が反応してくれるのは、紙の上に残った情報あ
ればこそです。

 ただし情報はこのように残れど、実際の商品は2、3年後となれば売れ残っている
可能性が低いのが当然ですが、やはり予約をもらったようなものです。2、3年後に予
約をもらうほどの悠長な商売ではありますが、逆にその後2、3年はその予約が有効
である可能性が高いのも、古本商売の特性です。手に入れたいけれどなかなか市場
に姿を現さない本はたくさんあります。予約をもらって数年後に「入荷しました」と恐る
恐る電話を入れると、「はぁ? いつの話だった?」と尋ねられ、受け付けた記録を元
に丁寧に説明をすると、あまりの悠長さに半分あきれながらも、「でも、あんたがたも
よく覚えていたもんだねえ。よし、わかった。買いましょう」と言っていただけることも少
なくありません。

 古書目録はこのようなさまざまな利点をもっておりますが、その作成には当然コスト
がかかります。普通古書目録は脈がありそうな客に無償で配布しますから、少なくと
も印刷代は覚悟しなければなりません。「飛び道具」として活躍させたい場合なら、目
録を客に送る郵送費もバカになりません。だからといって両方をケチって一枚刷りの
チラシのような目録では、掲載点数が限られて迫力に欠けますし、そのような体裁の
目録だと2、3年後の注文など望むべくもありません。一度目を通されたら即ゴミ箱行
きの運命でしょう。

 目録からその店のレベルがわかると言われます。単にそこに掲載されている商品
を売るだけにとどまらず、これほどの目録を出している店なら一度は直接訪ねてみた
いと思わせるほどにも、魅力を秘めた目録を作れるかどうか。


目録用の優良品確保(貯め込み)と、同業者目録からの仕入れの重視

 沖縄関係書で目録を編むと決め、またそれを絶対ちゃちなものにはしたくないとも
思った天久は、良質の古書をなるべくたくさん掲載するために、その後仕入れること
ができた沖縄関係書のうち、すでに新刊書店では入手が不可能となっている品切れ・
絶版本を中心に、めぼしいものは店頭に出さずバックヤードにため込むことに決めま
した。目録が完成したときに、そこに掲載されている本はその時点では嘘偽りなくす
べて在庫があるべきだと考えておりました。「目録を作っている最中に店頭で売れて
しまいました」では、何のための目録だ、ということになります。

 それに、バックヤードにため込むことは、商品の確保とともに、売価決定に時間をか
けられるという理由もありました。店頭に並べるのなら即売り値を表示する必要があ
りますが、この場合は、その本に対する各方面の評価や同業者の相場を、目録を印
刷する時までじっくり吟味できます。高すぎて客にそっぽを向かれるのは論外ですが、
むざむざ利益を目減りさせるのはつまらないし、また相場からかけ離れた低価格だと
客より早く同業者に買われてしまう可能性もあります。それではダメです。やはり客に
買ってもらって初めて店の実績と信用を築くことになるのです。

 また、今の話とは逆になりますが、仮に1冊の本に複数の注文が入った場合、再入
手の可能性をより高めるためには、同業者からの仕入れも考慮しておく必要がありま
す。店頭での一般客からの買入れだけをあてにしていると、なかなか欲しい本は入手
できません。もしその本をたまたま同業者が持っているのなら、それを買い付けて即
注文客に売ることが、営業戦略上とても重要な手法です。利幅はわずかであっても、
客の側に「あの店から買った」「要望にちゃんと応えてくれた」と感じてもらい、ひいては
リピーターになってもらうことこそ、大切なのです。

 とはいえ、その際損をしてまで買い付けることはできません。自店の価格が業界の
平均的な価格に比べて安過ぎると、同業者からの仕入れは難しくなります。その意味
でも業界の相場を勉強しなければならないのでした。

 相場の勉強のために目を通す同業者の古書目録も、月日を重ねるにつれてその種
類が増えていきました。東京の古書店を中心に全国各地の同業者に、古書目録恵与
のお願いをします。各店独自の古書目録、複数の業者のグループ目録、定期的な古
本市の目録等々、けっこうな数の目録が毎週のように届きました。先程説明した業者
心理については、こちらが沖縄県の新参業者ということで、特に気にかけるほどの存
在ではないと判断されたのだと思います。申し込めばだいたいは送ってもらえました。
有料の場合でもせいぜいが300円程度で済みましたので、勉強のためとあれば安い
費用でした。

 ただし、R堂のようにほぼ沖縄関係書だけで1冊の目録を作っている場合は、相場
の勉強にはかなりありがたいのですが、本土の業者のほとんどは沖縄関係書を特に
専門にしているわけではないので、目録を隅から隅まで調べても沖縄関係書は1、2
冊しか見つけることができないことも多いのです。しかしうまくできたもので、そんな専
門ではない業者の価格は、ときにかなり安い場合があり、そのときは相場の勉強が
そのまま「仕入れ」へと直結します。自店の目録掲載品の質・量両面の充実を心がけ
ていた時期でしたので、目に留まった本で「仕入れ」価格上も十分だと判断したものは、
とりあえず注文を入れるようにしました。抽選ではずれることもありましたが、それでも
偶然頼みの店頭仕入れに比べれば、確率の高い仕入れ口でした。しかも目録を見る
回数の増加に応じて注文のコツもわかり、当選品は確実に増えていきました。このこ
とは、古書目録作成にむけたその後の展望を非常に明るくしたものです。

千載一遇の大仕入れ−『琉球神道記』(慶安版)を入手

 1冊1冊コツコツと目録用の本をため込む作業が続いていたなか、ある日とてつもな
く大きなチャンスに遭遇しました。

 時に1985年11月、「阪急古書のまち十周年記念・古書善本大即売会」と銘打たれ
た古書展が大阪市の阪急グランドビル26階の会場で催されることになりました。主催
者である阪急古書のまち協会から中尾書店ほか全13店、協賛として東京の八木書店
・雄松堂書店・吾八書房の3店が加わっております。この古書展にあわせて出店業者
全16店による出品カタログが作られ、会期前に顧客に配られました。幸いに当店にも
一冊郵送で届けられました。

 「和本・明治文献の部」「自筆の部」「洋本の部」「洋書の部」の四部構成で、全体で約
300頁の目録の半分は写真図版であり、850万円の「芹沢けい介型絵染釈迦十大弟
子尊像」を筆頭に100万円単位、10万円単位の商品がズラリと並んでおります。普段
よく送られてくる古書目録類とは明らかにランクが異なります。
 そのカタログのなかに、それは掲載されていたのでした。
 
 「琉球関係書一括 琉球神道記(慶安版)、琉球人行列大全(寛政版)、琉球談(
寛政版)、琉球人入貢記畧(嘉永版)、沖縄志(明10)、南島紀事・同外篇(明19)、琉
球人来朝行列図(嘉永3年)、御免琉球人行列附(天保13年・英泉画)、琉球人姓名
(一枚摺)、他琉球関係洋装本百三十余点一括」           2,500,000円

 250万円です。一日の売上げが20万円とか30万円ある日も経験していた当店でし
たが、一口250万円の買い物となると悩まないわけにはいきません。和本を扱った経
験がなかったことも即断に躊躇する理由でした。ハッキリした記憶がないのですが、お
そらく私・天久は「金額の高さからして、さすがにこれは見送りだろうな」と思ったように
覚えています。

 ところがこういう場面での店主・照屋は強気です。2回分割払いでの支払い条件を先
方に認めてもらい、この超ビッグな一口もののコレクション入手に成功したのでした。
実は、最初に購入希望の打診をした際は、すでに先約の客がいてその方の正式注文
を待っている状態とのことでした。つまりはキャンセル待ちとなったのですが、照屋の強
気は運まで味方に付けたようです。結局その客は辞退され、めでたく当店の所有と相
成りました。

 カタログの記載が『琉球神道記』(慶安版)を筆頭に掲げているのは、発行年代の古
さからしても内容の重要度からしても当然でした。この1点だけで一括価格250万円
の3割から4割程度を占めていると見てよさそうでした。R堂の店主もこの一口もの、と
りわけこの慶安版『琉球神道記』についてはすごく興味があったらしく、当店が入手した
ことを知ると、「『琉球神道記』だけ70万円でうちに売ってくれないか?」と申し出たくら
いです。すでに『中山伝信録』の和刻本を100万円に近い価格で販売した実績をもつ
R堂が、次なる実績づくりにこの慶安版『琉球神道記』を欲しがるのは無理からぬことで
したし、この提示金額からしても「さすがはR堂」です。とはいえ、最大の目玉商品を売る
わけがありません(R堂の提示金額はしっかり「参考価格」とさせていただきました)。 

 慶安版『琉球神道記』入手は新聞記事のネタになると睨んだ照屋は、琉球新報社と
沖縄タイムス社に連絡を取り、日を変えて両社の担当記者の取材を受けました。先日、
当店の顧客の一人である糸満市在住のU氏の手になる「県内古本・古書関係」の新聞
記事スクラップ集を、ご本人からお借りする機会に恵まれました。それをめくっていまし
たところ、このときの両社の取材記事が含まれており、非常に懐かしく読ませていただ
きました(ここらへんの資料保存については当店はかなり「ずぼら」です。対照的なU氏
のまめさには、非常に感動いたしました。実はこのスクラップ集によって、この「当店の
歴史」の記述に一部誤りがあることもわかりました。さっそく訂正させていただきました)。
以下は、その取材記事の転載です。

 

  『琉球神道記』(袋中著)を入手  全5巻、貴重な文献   ロマン書房

 琉球神道に関する最古の文献といわれる袋中著の「琉球神道記」【写真】

 【宜野湾】宜野湾市真栄原にあるロマン書房(照屋全芳代表)ではこのほど、
 琉球神道に関する最古の文献といわれる「琉球神道記」(袋中著、1648年)
 を入手した。「琉球神道記」は1603年から3年間那覇に滞在した京都の僧・
 袋中が著した伝統的な琉球神道に関する見聞録で、県内では「県立図書館
 にあるだけではないか」(照屋代表)という貴重な資料。
  「琉球神道記」は琉球神道について具体的に記述した最古の文献とされ、
 全五巻から成る。巻四には琉球の寺院の本尊、巻五には琉球の神社の縁
 起、天地開闢(びゃく)の神話などが記されており、島津統治以前の琉球の宗
 教全般が記録されている貴重な資料。源為朝や銘苅子の伝説は同書に初
 めて記載されている。 
  同書には、京都市の袋中庵にある稿本(原本)と1648年に印刷されたも
 のがあり、今回照屋代表は大阪の古本市で1648年印刷本を手に入れた。
 印刷本は現在全国でも数少ないといわれ、照屋代表は「県内では私たちが
 確認したところでは、県立図書館にしかないのでは」と話しており、貴重な資
 料といえるもの。値段をつけるとすれば「百万円くらい」(照屋代表)と。
  
  1648年版であれば貴重な資料 宮城保県立図書館奉仕係長の話

  1648年の印刷本であれば貴重な資料だ。現在、県立図書館には1608
 年稿本の影印本と1648年の印刷本がある。1648年版は初版とみられて
 いる。その後の版は県立図書館にも五、六冊あるが、1648年版は一冊し
 かない。

                  (『琉球新報』1985年12月24日朝刊地方欄)

 

   希書も見つかってウシシ

  「琉球神道記」「琉球人行列大全」「琉球人入貢紀略」「琉球談」など江戸
 時代に刊行された琉球関係の古書を手に入れ、喜びに浸っている照屋全
 芳さん(古書店・ロマン書房店主)。【写真】
  昨年11月末に大阪で開催された古書フェアで沖縄関係書百数十点を一
 括して手に入れた中に尚寧王時代に那覇に滞在した袋中上人の「琉球神
 道記」(全5巻)の慶安版本をはじめ、「琉球人行列大全」(寛政版)、明治
 時代に出版された「沖縄志」など数多くの希書、また、近くは沖縄文化協会
 が発行し続けている「文化沖縄」の初期のガリ版刷りバックナンバーなども
 含まれている。
  「沖縄関係史料として一括して手に入れたものの中には古書類のほかに
 久高島の祭祀の古い写真や沖縄本島を民俗調査したときに使ったと思わ
 れる手作りの地図などもはさまっていて大変興味をそそられた。一月いっ
 ぱいに整理した上で二月には一般に放出していくつもりです」
  黄ばんだ表紙に歳月を感じさせる古書の山を前にしばし感慨もひとしお。
  「沖縄では古書店の地位が低く、その役割もあまり知られていない。公的
 な研究機関や大学とは違った在野の立場から私たちも新資料の発掘や普
 及に努めたいと思っています」
  希書を手に入れた照屋さん、古書への夢も一段とふくらんだようだ。

                 (『沖縄タイムス』1986年1月10日朝刊学芸欄)

コレクション旧蔵者がわかる−それは著名学者のものだった

 さて、この一括コレクションをひとつずつ手に取り点検すると、カタログの段階では見
えてこなかったある興味深い点がわかったのです。このコレクションは売り主である古
書店が時間をかけて集めてひとまとまりにしたものではなく、おそらく最初から旧蔵者
がこのまとまりで放出したものだろう、ということです。コレクションを構成しているいくつ
かの本には、その著者自身が旧蔵者に贈呈したものであることがわかる書き入れが
ありましたし(たとえば「謹呈 ○○君、著者●●」のような)、その贈られた人物が書い
た論文の抜き刷りも、同じものがかなりの数ありました。
 
 その旧蔵者(とおぼしい人)はまだご存命で、京都に住む私の友人S(大学時代の同
級生で同じく国文科に所属していた)は、自身の研究上知りたいこともあり、一昨年で
したか、思い立って大阪にあるその方のご自宅に直接会いに行って、かなり貴重な話
を伺ったと言います。さて、その人の名は、その人の名は、その人の名は……(「ザ・ぼ
んち」かい【古い】! ええい!もったいぶるな!)……『琉球宗教史の研究』の著者で
ある鳥越憲三郎氏です。

 コレクションのオマケみたいなものとして、久高島のノロを正面から写した写真や、新
垣孫一氏の筆になると思われる知念村の統計資料などがあったりしましたが、旧蔵者
がわかれば「いかにも」という感じでした。慶安版『琉球神道記』も、きっと必要資料のひ
とつとして入手したものなのでしょう。ちなみに『琉球宗教史の研究』(昭和40年 角川
書店発行)の第二章は、「琉球の文献並に民族誌研究前史」となっており、そこでは『琉
球神道記』についても触れられています。


 

                                           (未完・続く)
  
 

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